——分裂騒動の舞台裏から見えてくる“権利”という静かな主戦場
長年、ファンからの厚い支持を受けてきた実況者グループ「○○の主役は我々だ!」。ゲーム実況やオリジナルの世界観を武器に、YouTubeやニコニコ動画、さらにはコミカライズ展開など、多方面で活躍を見せてきたこのグループに、2024年秋、静かで重たい亀裂が走りました。
それは突然の「分裂」。そして、その裏でささやかれ続けているのが、**「そもそも“我々だ”って、誰のものなの?」**という疑問です。
メンバーたちの思い、視聴者の戸惑い、そして運営側の沈黙と発信。今だからこそ、表には出にくい“権利”の話を、できるだけやさしく、丁寧に、考えてみたいと思います。
■ 突然の分裂劇と「名前が使えない」現実
きっかけは、2024年9月に投稿されたある動画でした。
メンバーのひとり・鬱先生さんが、自身のチャンネルで「グループ名やイラストなどを自由に使えなくなった」と告白。視聴者は驚きました。何があったのか? なぜ“自分たちのグループ名”が使えないのか?
さらに、その後の展開で判明したのは、9名のメンバーがグループを離脱し、新グループ「まじめにヤバシティ」を結成していたという事実。ファンの間には動揺が走り、ネット上では「我々だの中で何が起こっているのか?」という声が相次ぎました。
■ 漂う「権利」の影――運営の存在が明るみに
そして2025年6月。事態は少しずつ“輪郭”を帯び始めます。
グループの運営側から発表された文書によって、「○○の主役は我々だ!」の運営に関わっていたのが株式会社キャラデウスという法人であること、そしてその代表・斎藤知也氏が協議に関与していたことが明かされました。
つまり、こういうことになります。
「我々だ」というグループは、単なる仲間同士の緩いつながりではなく、ある程度法人が関与する体制の中で運営されていたということ。
これは、エンタメ業界ではそう珍しいことではありません。人気が出てビジネス的な展開が広がっていくと、どうしても法人格の介入は避けられない。けれども、そこに「権利」の線引きが入り込むと、途端に関係性は複雑になります。
■ 「誰のもの?」という問いの正体
では実際、「○○の主役は我々だ!」という名前やキャラクター、ロゴや企画の数々は誰が所有していたのでしょうか?
公式発表から読み取れる限り、次のような構図が見えてきます。
- グループ名やビジュアルなどの知的財産は、法人(キャラデウス)側が保有または管理していた
- メンバーは制作・出演などの実演側に回る立場であり、権利そのものを持っていたわけではない
- 離脱後の活動では、元の名称や資産を使うことは認められず、新たな名称での再スタートとなった
この構造は、表面上はグループに見えても、ビジネス的には「所属タレントと事務所」のような関係性に近かったことを示唆しています。
■ 見えない契約と、歩み寄れなかった距離
運営側の主張によれば、分裂の背景には、報酬体系や運営方針に関する溝があったようです。
具体的には…
- 一部メンバーから提示された報酬条件が、運営継続が難しくなるレベルで高額だった
- 話し合いは続けていたが、途中でメンバー側から協議が打ち切られた
- 協議内容の公開前に一方的な情報が動画で発信された
などが挙げられています。
一方、メンバー側はあくまで「対話の余地がなかった」と主張しており、感情と契約、熱意と構造のズレが修復不能なところまで進んでしまったようです。
■ エンタメの“裏側”にある、シビアな現実
この騒動を通して浮かび上がってくるのは、エンタメ業界において避けて通れない**「知的財産」と「契約」の問題**です。
どんなに仲が良くても、どれだけ共に夢を追ってきたとしても、それがコンテンツとして世に出た瞬間、それは「権利のあるもの」になる。
そのとき、誰がそれを持ち、誰が使えるのか。口約束では済まない現実が待っている。
ファンとしては「名前を使わせてあげればいいのに」と感じる部分もありますが、運営側にとっては「全体のバランスと継続性を守る責任」もある。そこに温度差が生まれてしまうのは、ある意味で避けがたいことなのかもしれません。
■ では、「○○の主役は我々だ!」は誰のものなのか?
結論をあえてやわらかく言うならば——
「“我々だ”は、もはやひとりのものではない」
創り出したのは、間違いなくメンバーたちであり、育ててきたのはファンたちであり、形にしたのは法人であり、支えてきたのはスタッフや関係者たち。
その中で、法律上の「所有者」が法人にあったとしても、それだけで割り切れない思いや物語がそこには存在しています。
■ さいごに:静かな祈りのようなもの
今回の一連の出来事は、ある種の「成熟」の瞬間だったのかもしれません。
長く続いてきたグループが、ビジネスと理想、現実と感情の間でひとつの節目を迎えた。
それは痛みを伴いながらも、どこか避けられなかった未来だったとも思えます。
「○○の主役は我々だ!」という名前のもとにあった時間と、その中にあった“誰かの青春”や“誰かの居場所”が、どうかこれからも尊重されていきますように。
そして、離れた人たちも、残った人たちも、それぞれの道を歩んで、また新しい物語を見せてくれることを、ファンのひとりとして静かに願っています。
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