2025年6月――。静かな報道に、ざわめいたのは相撲ファンだけではありませんでした。
「増位山太志郎が亡くなった」――このニュースに、演歌ファン、芸能関係者、昭和歌謡ファンの間でも悲しみの声が広がります。
相撲界では“親子大関”という歴史的偉業を達成し、歌謡界では“100万枚歌手”として名を刻んだ稀代の存在。
**沢田昇さん(本名:澤田 昇)**という一人の男が、この世を去ったのです。
享年76歳。静かに幕を下ろした彼の人生を、今改めて振り返ります。
■ 親子二代で大関に――「増位山」という名が刻んだ宿命
東京・墨田区に生まれた沢田昇少年には、生まれながらにして背負わされた“看板”がありました。
そう、彼の父は戦後の名大関として知られた初代・増位山。力士として頂点を目指すことは、ある意味、宿命だったのかもしれません。
しかし、そこに甘えはなかった。
入門したのは父が師匠を務める三保ケ関部屋。1967年、19歳で初土俵を踏むと、そこから実力で這い上がります。
1970年に新入幕を果たし、73年には小結へ。そして――
1980年、ついに大関昇進。
父と同じ地位に到達し、「史上初の親子大関」として歴史に名を刻みました。これは今でも破られていない記録であり、まさに“奇跡”と呼ぶにふさわしい快挙でした。
■ 技で魅せた“粋な相撲”――柔らかさと華のある力士像
増位山の取り口は、力任せではありませんでした。
むしろその真骨頂は、柔軟な足腰を生かした技の妙技。とくに“内掛け”や“足取り”といった、繊細で華のある技を得意とし、技能賞を5度受賞。
押して押して押し切るのではなく、“間”を制し、“崩し”で勝つ。どこか色気すら感じさせる相撲でした。
成績は通算597勝。派手な勝ち星ではないかもしれませんが、観る者を唸らせる“粋な相撲”は、今でも古参の相撲ファンの心に残っています。
しかし、度重なる怪我が彼を襲います。とくに左肘の故障は深刻で、ついに1981年、34歳で現役引退。
土俵から去るその背中には、哀愁と誇りが同時に滲んでいました。
■ 師匠としての“第二の土俵”――地道に人を育てた後進指導
引退後は、父から受け継いだ三保ケ関部屋を継承。
師匠としては、表立った華やかさはなかったものの、徹底して地道な指導を貫いたタイプ。
代表的な弟子には、のちに小結となる**浜ノ嶋(現・尾上親方)**などがいます。
部屋付き親方としての姿勢も一貫していて、口数少なく、しかし温かい眼差しで若手を見守る――そんな“昭和の親方像”を体現していました。
そして2013年、65歳の定年を迎え、角界を静かに引退。
だが、彼の人生はまだ終わっていなかったのです。
■ ヒット曲「そんな女のひとりごと」で大ブレイク――“歌える大関”の真価
驚かれる方もいるかもしれませんが、彼は現役力士時代から歌手活動を行っていました。
デビューは1972年。ムード歌謡路線でリリースされた数曲の中で、77年に発表された「そんな女のひとりごと」が、空前のヒットを記録。
なんと累計100万枚超えという大記録を打ち立て、「歌える大関」「演歌界の異色スター」としてメディアにも引っ張りだこに。
その歌声は、低音ながらも艶があり、どこか人恋しさを滲ませる。
まるで相撲で見せていた“間合い”を、歌のフレーズにも活かしているような、不思議な説得力がありました。
相撲協会を退職後は、本格的に音楽活動に復帰。全国の演歌イベントやディナーショーなどに精力的に出演し、“第二の舞台”でも成功を収めました。
■ 趣味は絵画――二科展にも出展、“文化人力士”の一面
さらに沢田さんは、絵画にも深い造詣を持っていました。
プロ並みの腕前で知られ、毎年のように二科展に出展するなど、文化人としての一面も強く評価されていました。
土俵、ステージ、そしてキャンバス。
これほど多方面に才能を発揮した力士は、他に類を見ません。
■ プライベートは謎に包まれたまま――結婚、子供は?
生前、あれだけテレビに出ていたにも関わらず、私生活は極端に語られることがなかった沢田さん。
結婚していたのか、子供はいたのか――その詳細は、2025年の今に至るまで明かされていません。
派手な交友関係やスキャンダルとは無縁。
だからこそ、あの「そんな女のひとりごと」に漂う孤独感が、どこか本物に思えてしまうのです。
■ 療養中の逝去――死因は公表されず、静かすぎる最期
2025年6月15日、沢田昇さんは療養生活の末、静かに息を引き取りました。
死因については現時点で発表されておらず、詳しい病名も不明。
ただ、近年は表舞台で見かけることが少なくなっていたことから、長期的な病と闘っていた可能性が高いと見られます。
あれほど多くの“声”を持っていた人が、最後は静かにこの世を去る――
その対比が、また彼らしいとも言えるでしょう。
■ 増位山太志郎という“物語”が遺したもの
力士として歴史に名を残し、歌手として人々の心に歌を残し、画家として芸術に挑んだ――。
沢田昇という男は、まさに「一人の人生に三つの命」を宿した人物でした。
そのどれもが本気で、そのどれもが“筋を通した”生き方だった。
今や昭和の名力士たちは次々と鬼籍に入りつつあります。
でも、増位山太志郎の名は、これからも歌と共に、そして語り継がれる“相撲の記憶”のなかで、生き続けることでしょう。
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