土俵を去ったその背中には、悔しさも、誇りも、そして一筋の清々しさもあった。
2024年夏場所。角界の熱気が高まる中、突如発表された北勝富士の現役引退。
その報せは、多くの相撲ファンにとって**「まさか」**の出来事だった。
なぜ、今だったのか?
まだやれる、そう思っていた人も多いはず。
だが、本人が口にしたのは一言──「やりきった」。
この記事では、**彼の言葉・歩み・沈黙の裏にあった“本当の引退理由”**に迫っていく。
◆ 首と膝、「体が答えを出した」
一番の引退理由として語られたのは、ケガ。それも、長年積み重なったものだった。
- 首の痛み
- 右膝の不調
- 思うように動かせない体
これらは突然ではなく、**何年もかけて忍び寄った“終わりのサイン”**だった。
春場所では十両でわずか3勝、そして夏場所はついに幕下へ。
復帰を目指し調整を重ねたが、土俵に立つことなく休場──そして引退を決断。
「相撲が取れない体になってしまった。それが現実でした」
無理に続けることもできた。
だが、“自分の相撲”ができないのであれば、それは自分の信念に反する。
だからこそ彼は、潔く土俵を降りる道を選んだ。
◆ 幕下転落…それでもプライドは折れなかった
2024年夏場所、北勝富士は9年ぶりに幕下に転落した。
この“事実”が持つ意味は、一般には想像しづらい。
- 幕下以下は給与が出ない
- 支度部屋の格も、付き人の数も、全てが変わる
- 力士としての“見え方”も、大きく揺らぐ
だが、彼は言い訳をしなかった。
「幕下に落ちたからではなく、自分の相撲が取れないから、やめる」
負けて辞めるのではなく、貫いた先の幕引き。
これは、北勝富士という男の“心意気”そのものだ。
◆ 「一番にすべてをかけてきた」その言葉が、すべてだった
彼の相撲に対する姿勢は、ある意味で極端だった。
「この一番で、すべてが終わってもいい。そう思ってやってきた」
1日1番──それは、力士の鉄則。
だが、北勝富士にとってそれは覚悟の言葉でもあった。
勝ち負けだけじゃない。
“その瞬間にどれだけの思いを込められるか”。
そんな魂の相撲を取り続けてきたからこそ、
“納得のいかない相撲”に価値はなかったのだ。
だから、土俵を降りた。
それが彼なりの「勝ち方」だった。
◆ 思い出の一番──白鵬との激突、御嶽海との宿命
引退会見で語られた、思い出の一番。
まず一つ目は、2018年初場所の白鵬戦。
3度目の挑戦で、ついに金星を挙げた。
「子どもの頃から、最強の力士ってどれくらい強いのかと思っていた。その相手に勝てた。財産です」
夢を体現した瞬間。
北勝富士にとって、白鵬を倒したその一番は、相撲人生の勲章だった。
そしてもう一人、彼にとって欠かせない存在がいる。御嶽海。
学生時代からのライバルであり、プロでも幾度も激突。
通算28番、12勝16敗。
「勝ったり負けたり。でも彼との取組が、自分を成長させてくれた」
引退の報を伝えたとき、御嶽海はこう返したという。
「切磋琢磨できたのはお前のおかげ」
この二人の物語もまた、相撲という舞台で繰り広げられた熱いドラマだった。
◆ そして、北勝富士から“大山親方”へ――次なる土俵
引退と同時に発表されたのが、年寄「大山」襲名。
今後は八角部屋の部屋付き親方として、若手を指導する道を歩む。
かつて夢を追い、土俵を駆け抜けた男が、
今度は夢を支える側に回る。
「これからもっと頑張りたい。天国の北の富士さんにも、まだ『これからだぞ』って言われてる気がするんです」
ケガを経験し、勝ちと敗北のすべてを知った男だからこそ、
伝えられることがある。
◆ 結論:北勝富士の引退は“逃げ”ではない、“意志”だ
北勝富士の引退は、決して“ケガのせい”だけではなかった。
- 壊れた身体
- 幕下の現実
- 自分の相撲が取れないジレンマ
- 貫きたい信念
- そして、次の役割への覚悟
これらがすべて重なったとき、
彼は一人の力士としての物語に幕を引き、
次なる相撲人生のページをめくった。
土俵の上でしか生きられなかった男が、
これからは“土俵の外”から相撲を育てていく。
その目には、もう迷いはなかった。
◆ありがとう、北勝富士。そして、大山親方としてのこれからを応援しています。
何番も何番も、熱い相撲をありがとう。
“北勝富士”という名前に恥じぬ、真っ直ぐな力士でした。
これからは、大山親方として――
新たな“金星”を、次の世代に授けてください。
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