突然の訃報に、日本中のホビーファンが言葉を失いました。
あの“ミニ四駆の父”とも言われる田宮俊作氏が、2024年7月18日、90歳でこの世を去ったのです。
7月22日、タミヤが公式発表を行い、日本全国、いや世界中の模型ファンがその功績と人生を振り返るきっかけとなりました。
ひとつの時代が終わった──そう実感した方も多いのではないでしょうか。
本記事では、田宮俊作というレジェンドの90年にわたる人生を、死因・学歴・経歴・家族の観点から徹底深掘りしていきます。
彼がいかにして“世界のTAMIYA”を作り上げたのか──その軌跡に迫ります。
■ 静かに、そして誇り高く──死因は公表されず
最初に気になるのが「死因」ですが、今回の発表では一切触れられていません。
公表されたのは、「近親者のみで葬儀を済ませた」という一文のみ。
公の場での“お別れの会”は、後日改めて開催予定とのことですが、具体的な日程も発表されていません。
90歳という年齢から考えると、老衰や病気による自然な最期だったと推察されます。
ただ、タミヤという会社の「ファミリー的文化」からも、最期の時間を静かに家族で過ごしたい──そんな想いがあったのかもしれません。
田宮俊作氏らしい、華美ではない、しかし尊厳ある最期だったように感じられます。
■ 実は“法学部卒”だった?意外な学歴と原点
模型界の巨人の意外な一面──それは学歴にありました。
俊作氏は1934年12月19日、静岡県静岡市に生まれ、
県立静岡高校を卒業後、1958年に早稲田大学の法学部を卒業しています。
「模型メーカーの経営者=理系出身」というイメージを持つ方も多いかもしれませんが、彼は法律を学んでいたのです。
なぜ法学部から模型の世界へ?──その詳細は語られていませんが、きっと父親が創業した田宮商事(現在のタミヤ)での家業への情熱が、進路を決めたのでしょう。
大学卒業後、迷うことなく家業へ飛び込んだ姿勢は、当時から“男気ある決断”として語り継がれています。
■ タミヤを“世界ブランド”に押し上げた華麗なキャリア
俊作氏の人生は、タミヤの歴史と完全に重なります。
彼の歩んだキャリアは、日本模型産業そのものの成長ストーリーといっても過言ではありません。
▶ 1958年:田宮商事に入社
▶ 1960年:企画部長に就任し、ヒット商品の企画に本格参入
▶ 1969年:常務取締役へ昇格。経営の舵取りを本格化
▶ 1977年:社長就任
▶ 1984年:株式会社タミヤ初代社長
▶ 2008年:会長職に就任
▶ 2017年:会長兼社長として現場に復帰
▶ 2024年:会長のまま90歳で逝去
この60年以上のキャリアの中で、彼が業界に与えた影響は計り知れません。
特に、スケールモデル・RCカー・ミニ四駆という三本柱を確立した功績は圧倒的です。
- 精密なスケールモデルは「ホビー界の芸術」と称され、
- 電動RCカーは「走らせる楽しさ」を全世界に届け、
- そしてミニ四駆は、1980年代から“子どもたちの青春”を彩りました。
特筆すべきは、単なる“模型”にとどまらず、「走らせる」「勝負する」「集う」文化を作ったこと。
これは世界的にも例を見ない偉業です。
また、経営者としても海外展開に積極的で、1960年代から海外展示会へ出展し、世界20か国以上に現地法人・拠点を持つグローバルカンパニーへとタミヤを成長させました。
■ “静岡を模型の聖地へ”──地域文化への並々ならぬ愛情
俊作氏の“もうひとつの顔”が、地元・静岡への貢献です。
静岡模型教材協同組合の理事長としても長年活動し、「静岡ホビーショー」の規模拡大と国際化に尽力。
静岡市が“模型の世界首都”と呼ばれるようになった背景には、俊作氏の地道な努力がありました。
いまや静岡ホビーショーは、模型ファンの“聖地巡礼”の場となり、世界中からファンが訪れるまでに成長。
地域経済への波及効果も大きく、彼は単なる企業経営者ではなく、“地域の顔”でもあったのです。
■ 結婚相手・子供の情報は…?タミヤ家の今後は謎のまま
さて、プライベートについて気になる方も多いでしょうが、実は田宮俊作氏について、配偶者や子供の詳細な情報は一切公表されていません。
公式発表でも「近親者のみで葬儀」が行われたとあるのみ。
世代交代についての具体的な発表もありません。
とはいえ、歴史ある“家族経営”の企業であり、業界内では田宮家の後継者が既に存在しているという声も根強いです。
過去のタミヤ公式サイトでは田宮一郎氏の名前が見られた時期もあり、内部的な事業承継は水面下で進んでいる可能性が高いでしょう。
いずれにせよ、タミヤの今後の“舵取り役”が誰になるのか、ファンとしては気になるところです。
■ まとめ:一人の男が世界を“模型の楽園”に変えた
90年という長い時間をかけて、田宮俊作氏は「模型は子どもだけのものじゃない」「世界の文化だ」という価値観を作り上げました。
- 実車に勝るとも劣らぬ精密モデル
- 世界中の少年少女が熱狂したRCカー
- 一世代を席巻したミニ四駆ブーム
- そして“模型の首都”静岡の礎
誰よりも模型を愛し、誰よりも夢と遊び心を大切にしたその姿は、今も数多のホビーファンの心に生き続けています。
静かに、しかし確かにバトンは次世代へ受け継がれています。
これからもタミヤは“夢のプラモデル”を作り続けるはずです。
ありがとう、田宮俊作会長。
あなたが作った“夢の世界”は、いつまでも私たちの心に刻まれ続けます。
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