2025年5月19日。時間は午後3時25分。
いつも通り、子どもたちはランドセルを背負い、友達と笑いながら下校していた。
福岡県筑紫野市針摺西(はりずりにし)1丁目。ここで“あってはならないこと”が起きた。
軽自動車が歩道へ突っ込み、小学生の列に突撃。
車は横転し、周囲には血まみれの子どもたちが倒れていた――。
通報した女性の声が、その惨状を物語っていた。
「車が横転しています。小学生が、倒れています」
この一報が全国に流れたとき、誰もが胸をつかれた。
そしてすぐに浮かんだ、ひとつの疑問。
「いったい誰が運転していたのか?」
犯人捜しのような好奇心ではない。
そこには「またか…」という深い絶望と、「なぜ防げなかったのか?」というやり場のない怒りがあった。
さあ、この事件の“真実”を、深く、濃く、そしてリアルに掘り下げていこう。
◆ 事件現場はどこ? 踏切のすぐそば、“日常”の中に潜んでいた危険
まずは、事故の舞台となった場所から見ていこう。
現場は福岡県筑紫野市針摺西1丁目。
最寄り駅は西鉄・朝倉街道駅。その北側にある踏切のすぐ近くで事故は起きた。
ここは、決して田舎の過疎地ではない。
コンビニも学校もあり、人通りも多い。
小学生たちは、日々この道を通って学校へ行き、そして家へ帰る。
つまり──ごく普通の、生活道路。
にもかかわらず、そこに突っ込んできたのは、軽自動車。
歩道にいた子どもたちをなぎ倒し、車は横転。
現地に居合わせた男性の証言が、その衝撃を物語っている。
「ガシャンガシャンって大きな音がして、外に出たら子どもが血を流して倒れていた。1人は“痛い痛い”って叫んでた」
──心が凍るような光景。
子どもたちは何も悪くない。ただ、歩いていただけだったのに。
◆ 運転手は誰だったのか?──加害者として浮かび上がったのは“70代女性”
事故後、警察が発表した加害者の情報に、全国がざわめいた。
「運転していたのは70代の女性です。搬送されていますが、意識はあります」
ああ、またか。
誰もがそう思った。
そして、SNSにはすぐさまこんな声があふれた。
- 「どうして高齢者がまだ運転してるの?」
- 「免許返納すべきじゃないの?」
- 「子どもたちがかわいそうすぎる」
たしかにその通りだ。けれど、もう少しだけ立ち止まって考えてみてほしい。
この“70代女性”とは、どんな人だったのか?
そして、なぜ彼女はハンドルを握っていたのか?
◆ 彼女は“怪物”ではない──どこにでもいる「普通の人」だった
まず確認しておきたいのは、今回の運転手が危険運転常習者でもなければ、暴走族のおばあちゃんでもないということ。
おそらく彼女は、こういう人だろう。
- ひとり暮らし、あるいは高齢の夫と2人暮らし
- 地元に住んで数十年、近所の人とは顔見知り
- 毎週同じスーパーに買い物へ行き、病院にも定期的に通う
- タクシー代は高いし、バスは1時間に1本。だから車が必要だった
「免許返納」と言われても、彼女にとっては**“車=生活手段”**だった。
それを奪われるということは、孤立や生活の破綻を意味する場合もある。
もちろん、それでも事故を起こしてしまった責任は大きい。
でも、この女性が“悪”であったとは限らない。
彼女は、今日も全国の道路を走っている多くの高齢ドライバーのうちの1人だったのだ。
◆ なぜこの事故が、これほどまでに“心に刺さる”のか?
この事故には、いくつもの感情が絡み合っている。
- 被害者が小学生だったこと
- 無垢な子どもたち。守られるべき命。それが踏みにじられた。
- 加害者が高齢者だったこと
- これまでにも何度も、何度も繰り返されてきた事故の構図。
- 車が横転するほどの衝撃
- ただの接触事故ではない。命に直結する重大事故。
つまりこの事件は、「よくある話」では終わらない。
私たちが無意識に抱えている恐怖、怒り、悲しみ──それをすべて呼び覚ましてしまったのだ。
◆ これから明らかになる“彼女の背景”──捜査の先にあるもの
今後、警察の捜査や報道により、運転手の詳細が明らかになっていく。
- 認知機能テストをクリアしていたのか?
- 事故当時、服薬や体調不良があったのか?
- 家族や周囲から、運転を止める声はあったのか?
- ブレーキとアクセルの踏み間違いだったのか?
- それとも車両側に不具合があったのか?
こうした一つ一つが積み上がっていけば、
この事故が「避けられたもの」だったのかどうか、明確になっていく。
そしてそれは、次に同じ事故を防げるかどうかの分かれ道でもある。
◆ 結局、「誰が運転していたか?」の問いは、私たちへの問い
70代女性が運転していた。
それは事実。でも、それだけじゃない。
この問いの本質は、こうだ。
「もし自分の親だったら?」
「自分が将来運転し続けるとして、どこで線を引く?」
「社会は、その判断をサポートしてくれているか?」
──そう、結局これは「私たちの問題」なのだ。
高齢者ドライバーを“他人事”として語る時代は、もう終わっている。
◆ 終わりに:この事故が問いかける“未来”
この事故は痛ましい。
けれど、ただ悲しむだけでは終わらせてはいけない。
- 被害にあった子どもたちの回復を心から祈ること。
- 運転手の責任と背景を、冷静に受け止めること。
- そして、次の事故を未然に防ぐために、私たちが何をすべきか考えること。
今日、事故を起こしたのは彼女だったかもしれない。
でも、明日そのハンドルを握っているのは、あなたかもしれない。
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