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フェンシング岐阜羽島北高校:故意に負けた理由はなぜ?【わざと負ける不正行為】

まさか、そんな展開が待っていたとは——。

岐阜県で行われた高校フェンシングのインターハイ予選で、“勝っていたはずの選手”が、最後の最後でまさかの敗北。しかもその相手は、同じ高校のチームメイトだった。

それだけなら、よくあるドラマチックな逆転劇で終わっていたかもしれない。

だが事態は想像を遥かに超えていた。
後日、「その敗北は“故意”だった」との疑惑が持ち上がり、再試合が決定——高校スポーツの世界を揺るがす、前代未聞の展開となったのだ。

では、なぜ彼女は“わざと負けた”のか?
この一件の裏側にある、誰もが直面するかもしれない葛藤と現実に迫ってみよう。


■ 「インターハイに、一緒に行こうよ」──友情と欲望の狭間で

まず初めに浮かび上がるのは、「友情」という甘くて苦い動機だ。

この試合は総当たり方式。6人の中で3勝以上すればインターハイ出場の可能性があるというルールだった。そして例の選手は、すでに4戦全勝で出場権を確保していた。

そこで迎えた最終戦の相手は、自校のチームメイト。
彼女は2勝2敗。つまり、次に勝てば3勝となり、2人揃って全国の舞台に立てる──そんな状況だった。

「せっかくなら、2人で出場したい」
「一緒に頑張ってきたから、報われてほしい」

そんな気持ち、痛いほどわかる。
部活動という“家族以上に密な関係”の中で、仲間の夢を自分ごとのように感じてしまうことは、決して特別な話じゃない。

でも、その優しさが“試合を作る”という一線を超えてしまった瞬間、フェアプレーの灯火は消えてしまう。


■ 黙って首を縦に振るしかなかった? 大人の影に潜む“圧”

さらに深堀りすると、もっと根深い背景も見えてくる。

「勝った選手の関係者が、“負けてくれ”とお願いしたらしい」

そんな話が、まことしやかに流れ始めたのだ。

この“関係者”とは誰か。憶測では、顧問、保護者、あるいは進路に関係する学校職員などが挙がっている。
いずれにしても、大人の介入は確実視されている。

もしあなたが高校生で、日々お世話になっている先生や親から「頼む」と言われたら?
しかも、「チームのため」「仲間のため」と言われたら?
断る勇気を持てる生徒が、果たしてどれほどいるだろうか。

「この子を勝たせてやってくれ」
「2人で出場した方が学校の実績になる」
「後輩のためにもインターハイに連れて行ってやりたい」

そうやって、“教育的配慮”という名の圧力が、無言で、でも確実にのしかかってくる。

勝つことよりも、空気を読むこと。
正義よりも、関係を壊さないこと。
そんな“高校生らしからぬ選択”を迫られた彼女の心境を思うと、簡単に「ズルい」「最低」とは言い切れない。


■ 「チームのため」その言葉が招いたズレた正義

今回のケースは個人戦。勝つか負けるか、それだけのシンプルな戦い——のはずだった。

だが、部活動という文化の中では、“個人”であっても“チーム”という空気が常に背後に漂っている。

  • 1人で勝っても意味がない
  • チーム全体で結果を出すことが大事
  • 誰かが犠牲になれば、みんなが報われる

その思考が、ごく自然に染みついている。
もはやそれは“美徳”としてすら語られる。

だが今回、それが“勝負の公平性”を崩す判断につながった。
「2人をインターハイに出したい」——この願いが、フェアな勝負という大原則をねじ曲げた瞬間、スポーツの価値そのものが揺らいだ。


■ 負けたことが悪いんじゃない。「勝負を捨てたこと」が問題なのだ

繰り返すが、問題は「負けた」ことではない。

実力で負けたのであれば、悔しさもまたスポーツの一部。
だが「最初から勝つ気がなかった」のなら、それは“試合を成立させなかった”という、もっと根本的な問題だ。

観ている人たちは、それを見逃さなかった。
「あれ? おかしくない?」
「どう見ても手を抜いてたよね」
——そういった疑念が、再試合という結論を導き出すことになった。


■ これは彼女だけの問題じゃない。私たちが問われている

この出来事は、単なる一試合の不正ではない。
もっと広く、高校スポーツ、部活動、大人の介入、仲間との関係、正義とは何か…あらゆるテーマを内包している。

「もし自分だったら?」
「自分の子どもが、チームメイトに負けを頼まれたら?」
「教育者として、どう指導すべきだったか?」

そうやって、私たち自身の価値観が今、試されているのかもしれない。


■ 再試合は、ただの“やり直し”じゃない

再試合は決定された。でも、それで全てがリセットされるわけじゃない。

疑惑の目、モヤモヤした感情、そして何より、選手たち自身の中に残る「正しかったのか?」という問い。
それらは、再試合の結果以上に重く、長く残ることになるだろう。

でも、もし次の試合で——
彼女たちが本当の意味で“全力”をぶつけ合ったなら。
そして、その姿に観る者すべてが心を打たれたなら。

それが、スポーツが持つ“もう一度信じさせる力”になるはずだ。


誰かのために負けた。
その選択が、何を生み、何を失ったのか——
この一件が教えてくれるのは、「勝つこと」以上に「戦うことの意味」なのかもしれない。

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